彼女はいかにして戸籍上の母親を「お母さん」と呼んだのか:『スローループ』原作45話

いくら家族物語の側面を二大テーマの片方として抱えるスローループでも、父親では解消できない問題が戸籍上の母親と距離を縮めるきっかけとなるのは……うーん、そうかあ。

一夜明けて見返したふせったーの感想、自分でもびっくりするくらい混乱してますね。 ……いや感想に対する感想なんていらない。
(多分この記事を投稿する頃には消えていると思います)

まあ正直、現時点でも意表を突かれた感は否めません。
いくら42話で一端が見えたとは言え、小春の内面にはまだまだ謎が多いワケで。
そこに来て小春がひなたさんへ向けた振る舞いとしては、出し抜けな印象も強い。
「お母さん」呼び以前の話として、何と今回小春がひなたさんにはっきり敬語を使っていた場面は「何ですと……っ」「決して覗かないでくださいね……?」の2箇所のみでした。しかも後者はややおどけて見せたような、作中既出の言葉を借りればジョーカー的口調。
2人の会話が前に見られた回まで遡ると37話、それ以前通りの調子で朝の挨拶があった程度です。そこからこれほどまで砕けたやり取りができるようになったのなら、(現在初期に比べれば登場人物の内面がある程度見えてきていることや海凪家が互いの距離感覚を理解しつつあることを考慮しても) そこまでのプロセスはもう少し描かれて然るべきでしょう。
本作は既に1話1話の連続性を一定程度弱めても免責される段階に至ってだいぶ経ちますが、それを考慮しても (シナリオとしては) やや飛躍気味にぶっ飛んだ回がやってきた感は強くあるところです。

ただ、これは45話を「今までの積み重ねの結実」としてだけ見た場合の話。
このエピソードが「今後の展開に対する前フリ」でもあったとしたら、事情は大きく異なってきます。
今回の考察、ちょっと考えれば思いつくことであり、通常ならブログ記事送りにまではしないレベルの読みですが、意外に自分の脳内からも抜け落ちるものだなあ、と感じさせられたので、きちんとまとめて公開することとしました。

「お母さん」呼びに見え隠れする例のキーワード

結論から言ってしまいましょう。
今回の小春の振る舞い、根幹にあるのはまさしく打算そのものなのではないか

無論、小春の言動全てがそれによって構成されているとまでは行かないでしょう。ボク自身、このワードがついに本人から言及された42話の時点でも承知の上、感想へ記載したほどのこと。
ただ36話を見る限り、小春本人は少なくとも表面上で言えば、亡き産みの母親である裕子さんとの思い出を話題として持ち出せる程度には (平常時の場合) 折り合いがつけられている状態。これはひよりが信也さんの始終にあまり目を向けてこられなかったのと対照的です。
また19話、「今は…… (ひなたさんの) 笑ってる顔しかみない」とのひより談を受けて、ひなたさんを「よく知らないおばさん」 (5話そのまま) ではなく「母親としての在り方に苦悩する一人の普通の人間」 (6話も加味) として見る下地が既にできていました。

そこから今回の小春にどんな心境の変化があったかを考察してみるとするなら。
前者を採用する場合、小春は今回の出来事を通してようやく「もう1人のお母さん」としてのひなたさんを信任し、受け入れるに至った。
後者を採用する場合、先に戸籍だけで繋がれたのもあって家族としての振る舞いに苦慮を重ねているという部分は自分と何も変わらないひなたさんへ、小春自ら歩み寄る姿勢を示した。
もちろんこれらはバッティングしないので、双方が入り混じっている線もあるでしょう。
尚、ボク個人の感覚を込みで言うなら、前者は外れていても特段不思議と思いません。打算を自覚する者の可愛らしい打算である後者があれば、それだけでも充分かな。
とにかくここまで考えてようやく、ボク個人としても咀嚼できるエピソードだと言えるモノなのでした。

さて、ここで冒頭の問題に一度立ち返ってみましょう。
ここまで考察に足る描写がなされていながら、なぜこのタイミングでの「お母さん」呼びに甚だ違和感があったのか。
再確認ですが、ここまでに引用したエピソードはどれもかなり前の回です。
つまり下地があったとしても、こういった大きな出来事がやってくるには、直近の流れが弱かったのは否めません。
だとすれば、この回が次回以降をスムーズに展開させるための前フリの意味のほうをより強くもっている、と捉えるのが自然。
それも、受け止められないボク自身がいたことに対する自己擁護的な観点で無理矢理そう認識せざるを得なくなっているワケではありません。
そう考えるに至る経緯は、(現状ボク個人の仮定的推測としてですが) きちんと存在しています。

一応念押しとして、本作は既にここまでの地固めが磐石であり、高度に連続性の強いシナリオでなくても破綻のレベルにまでは至らない (連続性が弱くても問題ない構成へ徐々にシフトしてきた結果が今である) ため、これらが個人的な納得のための考察でもあることは改めて触れておきます。
そうした上で、次項へ行ってみましょう。

打算の背景にある事情、物語そのものの背景にある事情

シナリオ上の地固めは既になされていることであるとして、今回起こった出来事そのものが作中視点においてはどうだったのか。
小春からすれば、一誠さんと自分の身体にまつわる話をするのがほぼ不可能なのは疑うまでもありません。女性同士でも場面を誤れば話す側聞く側双方に忌避感が募るデリケートな話を、男性である一誠さんに相談するなど土台無理なこと。
次に、万一それが小春と一誠さんの間では越えられるハードルだったとしても、小春はそういった問題を自分からあっさり打ち明けたりする気質ではありません。場合によって、打算に基づき自分の抱える問題を先送りにしてしまう癖さえあるのは周知の通り。
今回小春は自ら話を切り出したのではなく、ひなたさんの気づきによって自身の変化を意識したことにはなりますが、もしもこういった問題を聞いてもらわなければならない状況に陥った時、その選択肢となる相手が身近にいるかいないかでは、安心感がかなり違うものです。
一般論で最も人間関係的に距離の近い存在であり、子供にとって重要な保護者である親がその対象となるのは、健全な家庭環境の1パターン (=恋ちゃんの言葉を借りるなら「あんた達なりの家族の形」!) と言えます。ゆえに、小春がひなたさんを「お母さん」と呼べるようになるきっかけないし最後の一押しとしては、大いに役割を果たしてくれた出来事と見て良いでしょう。

反面その裏では、どうしてもフォローの必要が出てくるポイントもあります。
まず、再三指摘しているように、小春の行動指針の多くを「打算」が担っている点。そもそもの話として、客観的な視点で見ても、今回の振る舞いが打算でないことを証明できるほどの根拠はありません。打算でない可能性、打算である可能性の双方があるワケ。最も槍玉に上げられる「お母さん」呼びさえ、「ひなたさんを安心させたいし喜ばせたい」とタイミングを見た上での行動だと捉えることができてしまうのです。
この「打算」、文脈や作品によっては肯定的に見ても良い部分ではあります。しかし当の小春自身、自らの打算をはっきりと卑下してしまっている以上、その状況を好転させる何かしらのフォローが要されるとも受け止められるワケです。
そこまで気にしている人がボク以外にいるか定かではありませんが、よりによってこんな回で「『打算』がどこかに核心の1つとして紛れていると考えなければ咀嚼が困難になる」と感じてしまった身ゆえ、せめて感想としてはどうしても指摘しておきたくなってしまうところ。

もう一点。こちらのほうが重要度は高めです。
家族物語であるスローループを親側に寄って見た場合、ひなたさんが親として信任されるファクターが「母親でなければできないことを実行した」のでは、それこそ父親である一誠さんの立つ瀬がありません。
一誠さんとひなたさんはこれまで、揃って親としての役割を果たしてきました。その意味で、2人の間には親として対等な格があったワケです。
ひなたさんを取り巻く視線にこれまでと異なる変化が現れた以上、やはり一誠さん側にも「父親だからこそできることを成し遂げる」必要は出てきます。ここを押さえてこそ、スローループにおける親側の家族物語は完全な形で次のステップを踏むこととなるのです。

この2点については今回を前フリとして、今後7巻範囲中に進展が見られてほしい。
今話を読み解いた上でボク自身が行き着いた着地点は、そんなところ。

終わりに

今回の記事、考察と言えば間違いなく考察ではありますが、起点をあまり客観的でない、ともすればボク個人しかやっていないような読み方としてしまっているため、ボクがやってきた中でも飛び抜けて自分本位な側面が強く出てしまった考察です。
ですので、納得や共感まで得られるとはほとんど思っていませんし、大っぴらに粗とまで断定するつもりもありません。
45話をご覧になって素直に感動した皆さんは、ぜひともその思いに自信をもっていていただければ。

かく言うボク自身も、小春がひなたさんを「お母さん」と呼べたことそのものに関しては当然喜ばしいという感想を抱いています。
2人の距離感がそれだけ縮まった意味でもさることながら、スローループを家族物語として読んだ際の核心にかなり近い展望があってのこと。
これについてはふせったーの前々回感想に追記してありますので、ボクの至極個人的な見方に興味をもたれた方はどうぞ。
一応、閲覧は自己責任で宜しくお願い致します。

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Written on April 22, 2022