義理の姉が懐にもつ、友人譲りの仕込み刀:『スローループ』40話

いやー、とんでもない人物でしたね。土屋みやびさん。
旧知の小春に対しても、その妹となったひよりに対しても、強く向けられた並々ならぬ思い。
彼女を加えて、本作における人間関係の「輪」はどのように変化していくのか。
今月も非常に良かった。一連の展開は次回にまで続いていくようですし、楽しみ。

40話扉絵

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……なーんて程度の感想で、終われるワケないんですよ。それほど懐の深い作品であるのが『スローループ』なのだから

優れた物語は、現実と何ら変わりなく生きている人物を描くもの。
そしてこんな人物が数多く集まることにより描かれていく物語もまた、同じように生きているもの。
気に入った対象がそういう存在なら、もっと深く知りたいと思いませんか?
同意してくださるそこの貴方、さあさあぜひともこちらにどうぞ。
ボクだってまだまだ本作を読み込み足りないと思っているところです。何卒もっと有意義な観点やご意見を賜りたく。

ところで、はて?
書いていてなぜこんな前口上になってしまったのかよく分かりませんが、改めて。今回はまたもや『スローループ』の記事です。
最新40話にまつわるアレコレを。

穏やかに拡がってきた「輪」と穏やかでない土屋みやび

こういう劇薬的人物と言いますか、それまでの描写でどっしり安定した世界へ明確に待ったをかける存在はやはりあるべきだなと常々思います。
少なくとも小春を中心とした人間関係については、これまで出来過ぎなくらいに上手くいっていた。いや、「上手くいっているとされたまま来ている」くらいがちょうどいいかもしれません。
と言っても、「本当に上手くいっているのかそうでないのか」は二の次で、重要なのはその疑問を投げかけること。
それまでの枠組みにあった既存の認識を外側の目で俯瞰して問い直し、そこから結論を改めて導き出すのは、それまでなされてきた描写の強度を上げると同時に、物語を次へ進める上で不可欠なステップです。

時系列こそ遡るものの、今回冒頭の回想で土屋みやびから小春へ向けられた「また我慢してるんじゃないの」も、そんな問い直しの1つ。小春は37話の回想でも、自分を顧みない言動が印象的でした。
物言いのみならず対人における姿勢まで直截的すぎる、土屋みやびという人物なら、本当にどうでもいいと思っていることはわざわざ首を突っ込まないでしょう。小春の人懐こい一面などには拒否反応を示していても、どこか他で共鳴できる点があったハズ。
そして土屋みやびは小春に「なめられたら終わり」などと発破をかける一方、「向こうでうまくいかなかったらうちくれば?」なんて切り出しもした辺り、その実かなり気を許しています。
そんな彼女からの心配でもある問い直しを、小春は中学卒業前後の時点でまたしてもはぐらかしていました。
ともすれば土屋みやびの視点では、今もその問い直しを小春相手にしたところで無意味だと判断されているのではないでしょうか。
それもあって、彼女の中で自然とひよりが選ばれた。21話の「つらい時は弱音吐いていいし悲しい時は泣いていいよ」以降依然として小春の心中に辿り着いていないひよりは、土屋みやびが自身へ向けたもう1つの問い直しである言葉に、果たして何を考えるのか。
これは本作主人公の片割れであるひよりに課せられた、一大試練と評して然るべき。

<追記>
思えば土屋みやびによるこの問い直し、万一の場合に備え小春と小春に対する自分の立場をひよりから守ろうとする自衛のみならず、ひよりに対する優位性を保持し続けようとする心理とも受け取れます。
一貫性の高い行動を取っている辺り、この意思はかなり堅いと見て良いでしょう。ひよりが打ち解けるまでの過程はやはり一筋縄ではいかないハズ。
<追記ここまで>

これまでのエピソードに再度寄り添って読み解く海凪小春という人物

今回個人的に改めるべきと感じた点は、「そもそもひよりたちが小春の抱えているであろう苦悩をまだぎりぎり推測できているのみであり、人格形成の過程で起こった問題の発想に至れていない」部分への意識が不足していたところ。
具体的に言うなら「小春がどういう時に我を押し殺し、どういう時は逆に我がままな振る舞いをするのか」などをボク自身見つめ過ぎていました。
これ、めっちゃ良くないなあと。前話についてもここを踏まえて再読したいくらい。
無論個人的な観点としては問題提起を継続するつもりですが、そもそも現時点では「小春が自分の望むままに振舞えているのかどうか」それ自体が作中視点での大きな問題であり、それ以上でも以下でもなかったワケ。だから、今でもこのくらいの描写でちょうど良かったですね。
で、その小春について、土屋みやびから改めて提起された問題。換言すれば「気遣い」と「我慢」の違いってところでしょうか。

まあともあれ、だいぶ不意打ちだった37話と比べた今回の「待ち遠しかった」感たるや。

他者と共存する上で相手への気遣いは大事。しかしそれは「我慢をずっと続けよ」なんて意味ではない。
ひよりがそこまで意図していたかは分からないにしても、21話における件の台詞はそういった働きかけの役割だって果たしてくれるハズ。
気遣った分報いとしての気遣いを受けていいのは義理であり、現に小春はそれだけの気遣いをできている一面もあります。そして気遣われたらその分相手を気遣いたいのが人情。
ひよりは言うに及ばず、土屋みやびもまた (表面では馴れ合いを嫌う素振りを見せつつ) 小春の思いやりを受け止めています。そんな2人それぞれの小春に対する情によって引き起こされた衝突事故が、「アンタに合わせて無理してるんじゃないの」のシークエンスなのだろうなと。

<追記>
そういえば冒頭回想内の更に回想、小春が母親に向けた思いに関する記述を失念していました。
小春の母親は既に亡くなっている以上、遺された小春がその母親へ思いを馳せるのは当たり前として、念頭に置きたいのはこの思い出が家族を喪う事故よりも前の出来事である点。
これまで「小春自身幼少期から入退院を繰り返し、病床などで寂しい思いをしてきたために、周りの誰が自分の与り知らないところで関わり合い自分を置いてけぼりにしてもそれを厭うてしまう」と推察してきました。
が、どうも母親と、一誠さんや弟の夏樹君では、小春の思いに幾分差があるようです。例えば小春がこの海水浴で「母親が夏樹君を見守り一誠さんの付き添いで遊んでいても特に不満は抱かない」と考えていたので、これはやや大きめの読み違い。
近しい誰かと一緒にいられれば寂しさが埋まるのではなく、近しい誰もが一緒にいられないと寂しさが埋まらないのが小春なのだろうか……?
<追記ここまで>

これまでのエピソードに再度寄り添って読み解く海凪小春という人物:コミカル編

しかしまあ、渦中の小春に関して今回ちょっと笑ってしまうのが、土屋みやびから小春への助言「ヒエラルキーの頂点に立ちな」でした。
いやはや、これが原因で小春に息づいてしまったのかもしれない、何とも予想外な一面があるように見えてきます。

それは何かにつけてマウントを取りたがる負けず嫌いっぷり

前回で言うなら「鯉のおいしさをご存じない!?」が筆頭でしょう。また「なぜバレンタインに作るお菓子が恋ちゃんと被っただけでブラウニーからマカロンへと変えられてしまったのか」に関して疑問をもっていたボク自身、近しい読者の方から「恋ちゃん以上に料理上手だと示すべく自慢の腕を発揮したい」のではないかと見解を貰っていました。これについてもどうやらその線で見れば繋がりそうだなあと改めて腑に落ちた次第。
また、何より面白くて仕方ないことに、今回この一面は当の土屋みやびにも向けられています。
「どっちが早く釣れるか勝負だよ!」「三回勝負だから!!」の両方とも、彼女からすれば見事に身から出た錆なのがまた…… (適当)

土屋みやびの人物像についてはさておき、ネガティブな感情ほど内向きのベクトルになる小春が取ろうとする相手のうわては、まあこんなものなのかあ (適当)。

旧知の人物である造形を念頭に置いて見る土屋みやびという人物

(この項は願望やバイアスが特に強いので、流し読みしていただければ充分です)

冒頭の回想で小春が海水浴に行った際の思い出を聞いていた、土屋みやびが見せたドライな反応。
初見の時点から、ここでボクの中に憶測が生まれました。

土屋みやび(+あや姉妹)はスローループで現状最も深刻な家庭環境の不和を抱えているのではないか、と。

ボク自身、スローループという物語にそんな問題を抱える家族がいつか出てきてほしいとも願ってきました。
理由は「既存の枠組みを既存の認識を外側の目で俯瞰して問い直してもらうため」。既に示した「土屋みやびが担い得る役割」と同一です。
これまでのスローループは、大なり小なり問題こそあれど「尊べる絆で繋がろうとしている家族」を描いてきました。
現実の家族なんて、そう上手く機能できるものではない場合もあります。未だに海凪家がとても大きな気遣い合いにより距離感を掴むのに難儀しているのも然り。
それを更に突き詰めていけば、「そもそも全ての家族に繋がりを保つ理由があるのか?」という疑問に至るのは必然です。
これまで程度の綺麗事では済まない、もっとシビアな部分をも描いてこそ、「家族」という普遍的なテーマを軸にした物語の強度は更に上がっていくと言って良いでしょう。
そのためにも、土屋みやびの問いは既出描写と比較すれば異質な重みをもっているのではないか、と頭の片隅で見ておきたい。

そんな彼女が小春に向けた助言は、改めて振り返ってもなかなかアグレッシブ。
この無遠慮な物言いが知らず知らず物語序盤の小春に影響を与えたと考察していましたが、まあそんな生易しいレベルを超える働きかけでした。彼女のほうが仕込んだ側だったのか……
めっちゃどうでも良いんですけど、ひよりの幼馴染である恋ちゃんとは正反対にも程がありますね。
その恋ちゃんは自らの家庭に身を置く中で、自他の線引きを厳格なものにしていった経緯があります。
一番の立ち位置に畏怖を成し、他者への干渉を避けた恋ちゃんと、(ちょっと意味合いは違いますが) 一番の立ち位置に拘り、他者の優位に立とうとする土屋みやび。対照ぶりとしてはなかなか面白い。
土屋みやびの性格形成に家庭の不和が関わっていたと断定できる根拠はまだないようですが、恋ちゃんと同じく相応の理由があるだろうと展望はしておきたい。

ちなみに、断定へ至れる根拠はまだないようですが、何となく取っかかりになりそうだなと思える描写なら見出すことができました。
「向こうでうまくいかなかったらうちくれば?」という提案。父子とは言え1つの家庭である、以前の海凪家を引き込もうとする発想など、よほどの事情を抱えていなければ出てこないハズ。
無論その意味合いを彼女自身捉えられていないまま、思わず口を突いて出ただけの可能性もありますが、これを大真面目なモノとして扱った場合、他の描写にまで色々と繋がる至極現実的な線が想定できます。

父親を発端とした何らかの事情により、土屋家もまたそれ以外の親族だけで構成された家族であるケースです。

(ここまでは流し読みしていただいて大丈夫!!!)

その他、今回触れておきたかった小ネタ等

冒頭の回想において未来を展望しながら滑り台を降りて前に進む小春と、その話に耳を傾けブランコでゆらゆらしている土屋みやび。これもまた味わい深い描写だあ。
小春の「かます!?」は37話38話の影響でちょっとシャレに見えてしまいました。まあ言うまでもなく双方意識はしていないでしょう。
さて、そんな土屋みやびを昼寝 (?) から引き戻した妹のあやちゃん、スマホを見る姉から足蹴にされてるのが何とも。「なになにかれし?」「ばかたれ」の掛け合いは小気味良くて好き。
P26-1、「こはる」と呼び捨ての虎君が印象的。
加えてここら辺では恋ちゃんが名前の件をどれだけ根にもっているか改めて分かる……
鯉こくって微妙に語呂が良くない気がしますね(失礼か?)……それ以上にイワナこくはもっと語呂が……
「小春」と呼ぶのが照れ臭そうな土屋みやびさん、これはちょっと分かる。名字呼びが馴染んでしまった後だと名前に呼び変えるのはどうも何となく気恥ずかしいものです。ボクは中学の時にこういうのあったなあ。
P38-5、「このウキ釣りっぽいね〜!」「フライだって釣りだよ」……またやっとるがな (cf. 10話) 。
P41-5。この小春の顔よ。多分今回一番笑ったと記憶しています。
P42-4、半目のまま笑顔になるあやちゃん。こういう表情の豊かさを見せる人物はとても好き。
P45-5の小春は24話に引き続きひよりの教えをよく意識していますね。次また同じシーンを見たらそろそろ「考えが固着しすぎてきてるんじゃないか」とでもツッコミを入れそう
P46-3の土屋みやびさん、「ここでいい」と言われてまさかの21話 (発話者はひより) を思い出した辺りボクも因果なもんだ。そしてボクこそどんだけ21話が頭に固着してるんだ。

終わりに

ボク自身「小春の過去が開放され、小春が過去から解放される回」をスローループにおける1つの山場だと位置づけ始めたのは、いったいいつだっただろう。やっぱり7話だったかな。
……この最終項だけ時間を置いて書いているんですが、その直前に見た近しい読者の感想で、今回40話の扉絵が7話を引いた構図であったことを知らされました。

7話扉絵

ああ……悔しい……自力で思い出したかったなあ……

バイアスが強すぎるポイントと言い、やっぱりボクも読みがまだまだですね!
だからこそボク自身もっと深い読み込みと考察を目指していきますし、同時に同じ志のある読者がどんどん増えるのを改めて心待ちにしています。

Written on November 24, 2021