基準点

朝になって目が覚めた時、部屋が静かだと「ああ今日も朝は静かだなー」くらいしか思わない。
学校が終わってから家で友達と一頻り遊んだ後、その友達が帰って静かになると「退屈になっちゃったなー」程度には考える。

あるいは精一杯勉強したり、仕事なんかに打ち込んだり、趣味に没頭したりすると、
それが一区切りついた時結構虚脱感に襲われる。
燃え尽き症候群の1つとも考えられます。

一方でそうやって行われてきた営みは、諸行無常の言葉通り、究極的に言えば何も残らない。
中期的には(永遠、くらい長い期間を長期と捉えた場合の「中期」です)残るモノもなくはないけれど、そうかと言って「その残していく人」は結局、残されたモノの恩恵だっていずれ受けられなくなる。だから残らないも同然と言えるでしょう。
けれど「何かを残していきたい」と感じてしまうのもまた性。
難しいですね。

何を言おうとしたか忘れそうになっちゃいましたが、要するに

  • ありとあらゆるモノは突き詰めて考えれば意味がない(これが人々の営みに対する感情の基準点)
  • だから「何かを残していきたい」と感じることそのものが等しく尊べるのだろう(もしかして尊いと感じる根源は共感ないし共鳴の一種では?)

みたいなことを、今日にしてボクはふと思った気がします。

あんまり深入りすると色々臭い話になってしまうので避けますが、(確か)小学校低学年の頃に読んだ本がこんなふわっとした結論のきっかけになりました。
物事の関係性を一度捨てて絶対的に見てみたり、逆に関係性重視で相対的に見てみたり。
その結果が今更こうやって役立ってきた(本当か?)辺り、意味のない学びなんてないんだよなと改めて思うばかり。

だから生きてきた人たちは皆尊くて素晴らしいし、今何かをしている人はもっと尊く素晴らしい。
こんなよく分からん記事をご覧になった方も、尊くて素晴らしい。そしてありがとうございます。
(本当は「尊い」でなく「偉い」にしたかったけれど、「偉い」という言葉が苦手なので置き換えてしまったのは内緒です)

Written on February 4, 2021