道は違えど同じ目的地へ:『ななかさんの印税生活入門』最終39話を通じて読み解く少女の旅路

2019年2月19日……
『ななかさん』が連載を終えたあの日からもう3ヶ月……

昨年末にAdC参加記事を描いたくらいの作品が……

まあ、嘆きになることすら放棄したような駄文を書き連ねても何にもならないので、さっさと本題に入ります。
終わったのは連載だ。物語は終わってない。
あの世界に完結はなく、まだまだ続いていく。
今回はそんな風に、ゾンビも本能的に後退りしそうなスタンスで。

個人的な疑問 “ななかさんはかなでさんと同じ道を行ったのか”

そんな因縁のある、『ななかさん』39話。
冒頭では1話を彷彿とさせる一幕の後、ななかさんとみきちゃんがこんなやり取りをしていました。

みき「そういえば書籍化の話きたんでしょ?」
ななか「来ましたけど まだ自分そこまでじゃないかなと」

『ななかさん』をご覧の方なら、これを読んで思い返すシーンがあったハズです。
どこかと言えば、17話終盤。

かなで「出版依頼来たっす」
永山先生「すごいな 受けないのか」
かなで「まだ自分そこまでのものとは思えなくて」

自分はこの展開に、かなでさんとは中学校を除けば旅路を異にしたななかさんがここで同じ心理に至るのかと結構疑問をもちました。
もちろん、しばらく立って読み返してからは色々解釈できる部分だとも思っています。
順当なところなら、自分の実力を真正面から見極めたことの現れだとか、そこに胡座をかかず邁進していく意思の現れだとか。

ただ、自分としてはここで先の1話に戻ってみたいんです。
ななかさんが小説執筆を始めた動機、それは印税を稼いで親を見返したかったから。
であるならば、ななかさんはここで出版依頼を受けるのが自然なのではないのか?
依頼が来た時点で客観的な高評価もかなり勝ち取っているワケですし、与えられたチャンスには素直に乗るのがこの場合得策だったのじゃないかと感じたんですね。

そんなこんなありまして、ボクは改めて『ななかさん』における彼女の旅路を追想してみたくなったのでした。

ななかさんには「我」がなかった

序盤のななかさんには「我」=心底書きたい世界がありません
2話では早速「決意だけはしたけどなにやっていいかまだわかんない」(1-P18-6)とその片鱗を窺わせる言葉を零していました。
まいさんが描いたラノベ風の絵を見てインスピレーションが湧いてきた、なんて一幕(3話、1-P29-7)もあるにはありますが、5話でもやはりと言うべきか、まいさんから「あんまり自分が書きたいものとか言わないんだよね」(1-P47-6)とバッサリ。

更に言えば、他の創作家の面々には結構「我」があるのも対比的です。
「気がつくと何か描いちゃってる」百合嗜好のまいさんに、「普段思いついたパーツ」が繋がった小説を書くかなでさん、深夜アニメの先を「みんなしあわせにしようとしたら世界が終わってしまった」ところから始まったいろはちゃん。
作中で創作をやる動機がはっきりしているこの3人、言ってしまえばそれぞれが生粋の作家気質でした。

それと比較して「親を見返したい」のはすごく外的な動機です。
これはやはり、ななかさんに我がないこととも呼応していると言えるでしょう。

自立の先の道筋は

そんなななかさんも、まいさんに対して「(絵を)描いてみたいと思わせるほどのお話が必要なんだ」と思い至ったり(9話、1-P77-8)、作家の先輩でもある母親に向けて「そんなの(ネタ)あったら自分で使いますし」(12話、1-P104-3)と口走ったり。
紆余曲折を経て、「家からの自立がテーマになってる」(14話、2-P16-3)物語を書き上げます。

それ以降はまいさんと互いに刺激し合いながら物語を生み出し(18話2-P48-1~4)、
それが元で有名なWeb小説家であるかなでさんに勝負を仕掛けられた22話(2-P77-6~8)では、

ななか「kanadeさんと同じ土俵ってのはまだ」
(中略)
かなで「まだってことは上がってくるつもりだよね」

両親以外の相対評価軸を得て。
その勝負の結果、部長として復興した文芸部にいろはちゃんがやってきて言い合いになっては「(異世界)行きたいんですから行かせてくださいよ」(26話、2-P116-2)と、流行りやウケではなく自分の書きたい世界観としてラノベの文脈を引き合いに出して
日常の積み重ねの中で、ななかさんは確かな成長を遂げていきました。

(序盤を抜けてからは、ななかさんの歩む道のり以上に「同好の士との出会い」や「ななかさんが周囲に与える影響」の側面が強まっていてイベント性も十分ですし、これはこれで堅実に楽しく掘り下げ甲斐もある展開なんですが、今回はその辺りを割愛)

こうして読み返してみると、文化祭に向け文芸部としての合同誌製作を提案した点(27話、3-P10-2)なんかはななかさんの成長における1つの山場のような気もしてくる。
あるいは、ななかさんが自分の実力を俯瞰するようになったきっかけがあるとするならば、自分以上の実力者であるかなでさんと直接対面の上勝負することになった先の22話だったりとか。

改めて39話冒頭に戻ってみよう

結局のところ、「旅路」の文脈で読むと「我」が出ているかどうかが重要だったんですね。
そしてななかさんに創作者としての「我」が生じたからこそ、むしろ書籍化の話が来たときに創作者として妥協はしたくないと考えた結果の選択を取ったことになりそうです。

ただしここで忘れたくないのが、39話でななかさんはかなでさんともいろはちゃんとも異なる旅路を歩み出した点。
誰しも、特定の他者との出会いは必然ではありません。それは何も人との出会いそのものが重要でないと言っているモノではなくて。 ななかさんにしたって、同じ中学校の先輩でもある著名なWeb小説家がかなでさんである必然性も、同級生で文学指向の強い小説家がいろはちゃんである必然性もなかったワケで。
これはかなでさん視点でも然り、いろはちゃん視点でも然り。
一方で、その時その場所でその人と運命的に出会ってしまった事実も、また変わりようがないモノです。
彼女たちは出会い、しばし同じ時間を過ごして、そのうち旅人のように別れを告げて自分の道を歩き始めて。
これって奇跡みたいなことで、奇跡みたいなことはそう簡単に起こらなくて。
旅人たちは時間差で、同じ場所を通り過ぎていくのかもしれない
それが創作者であるななかさんとかなでさんの場合、39話冒頭と17話終盤の決断のような形で現れていた。
そう考えると、切なくて美しいと思いませんか?

ただ、何もそれを悲しむこともない。
彼女たちの旅路は例え違っても、創作者として通りすぎるであろう場所は同じ。
ならばこそ、広い視野で見れば創作者として一番上を行くかなでさんは、2人とまたどこかで出会えるのを待っている。
願わくば、それが自分たちに共通の目的地であらんことを。

旅路の文脈で見る『ななかさんの印税生活入門』は、そんな物語だったと結論づけられるんじゃないでしょうか。

終わりに

実は『ななかさん』を読み返しながらライブ的にこの記事を書いていたので、ちゃんとした結論を導けるかとても不安でした。
でも、割といいところに収まった感があってよかった。

それとこの物語、もっと作り手としての歴が長い先輩もいますね。永山先生とか、ななかさんの両親とか……
その中でも、ななかさんの母親はこんなことを言ってました。

あまり人が通らなかった道を選べばその後の経路が王道でも案外新鮮に見える」。
もしかして、これを「創作」ってテーマに適用しようとしたのが『ななかさん』だったりして。

今回改めて『ななかさん』を読み返して、ボクはそんなことを考えていました。
この辺りも含めて、まだまだ楽しめる部分は大いにありそう。

Written on May 3, 2019