友人2人と出先で夕食を食べながらぼんやり考え事をして、その結果言いたくなったことをいくつか

ツイッター垢を一時的に消した時期の影響が残っているのか、思考は疎か生態を発信することにさえどうも気が向かない。
自分が発信したいのはどういった類の談なのか。
自分が取得したいのはどんなカテゴリの情報なのか。
そういった事項に関する考えを俯瞰して積み重ねていくうち、ツイッターにおける振る舞いが何となく迷走している気がする。
自他を問わず発信された情報で傷つく人が出ることもあり、それに対する自他への嫌悪感が迷走に更なる拍車をかけていたりする。
苦心してセットアップしたmastodonは、何だかんだでツイッターよりは気軽に浮上できている(何て言ったって自前で構築したパーソナルスペースなので)。
とは言うものの、トゥート(mastodonにおける投稿文。ツイッターで言うところのツイート)も考察でない物すらやはり俯瞰気味になってしまう。
こんな心理状態が続いて、情報を発信すること自体に対してメリットよりデメリットを強く意識してしまう今日この頃です。

しかし、そんな中でもやはり発信したい情報は浮かんでくるワケで。
いくらリアルで自分の周囲の人間関係に恵まれている現実があったところで、趣味などで接点を持った人をメインに発信したい情報もあるワケで。
こういうときにこそ、ブログのように”誰かが能動的に読んでくれることを期待するスペース”を拠点として何かしらの発信を行うメリットがあるのではないかと、こうしてキーボードを叩いています。
というワケで、今回も長い前置きになりましたが、つらつらと本題に入っていこうかと。

客観は共同体に属する人間によって成し遂げられ得ることか?

社会心理学的なバランスを示す関数、と題して以前のエントリで紹介した考えにも結びつく話。
客観的な解釈がたった1人の考察者に拠ってなされるということは、非常に難易度の高いことです。
共同体の中に存在する考え方の中でも、自分の考察が正確である……そう信じて疑わなくなってしまえば、それこそ客観からは遠ざかってしまう。
だからこそ考察者は自分の思考を疑い、そこにバイアスがかかっている可能性を想定しなければいけない。
そしてそのバイアスは、共同体というフィルターを通して取得される、平均化された考え方を客観として採用することで取り払われる、というのがボクの考え方。
そしておそらく同時に、大多数の考察者にも共通しているのではないかという考え方でもあります。
社会心理学的なバランスを示す関数に準えて言えば、「共同体というフィルター」の部分が全射関数、共同体に属する人間の思考(3つ以上あるかもしれないが、やはりここでは総和を1とするといいかもしれない)が関数の入力、「平均化された考え方」が関数の出力になるでしょうか。

閑話休題。
それではここで、何が問題になるか。
困ったことに、関数の入力に該当する数々の思考を、現実的範囲における「客観的な考え方」に則して捉えようとしたとき、その入力が全射であることを証明できなければ、客観を得ることはできないという現実が立ち塞がります。
これはより現実的かつシンプルに言うならば、共同体内に存在する人間が共同体外からの俯瞰を行えない以上、正しく平均化された考察を取得するという理想的な方法を取ることができないということと同義です。
ボク自身を含めた特定個人の思考を信じることも叶わなければ、共同体の平均たる思考も共同体の中から見たところで信じることは叶わない。
共同体に所属する全ての考察を拝むことも、その共同体にいる限りは現実問題として叶うことがない。
だからボクは、共同体の外に出なくてはいけない。
とりわけ考察という行為をする際には、共同体の一員であるための感情的な諸々を全て捨て去らなくてはいけない。

……と、ここまで色々書き連ねてきましたが、実はこのエントリを書こうとした段階で構想していた物と違う解に落ち着いてしまいました。
ただ、自分のこれからのスタンスとしてはより理想的な解に辿り着いたかもしれません。

共同体不信

以上で上げた解を、どうして理想的だと捉えたのか。
元々次はそういう話をするハズではなかったのですが、この解には共同体に対する2つの不信に結びつく点があったので、前項での話も絡めて話を続けます。
1つは、自分が共同体内の全域を視認できるかという問題から派生する不信。   上述した通り、共同体内に存在する全ての思考を取得するということは(特に自身が共同体内に存在する限り)事実上不可能です。
しかし客観を重視している自分に取って、これは耐えがたい苦痛。
もっと言えば、共同体に所属するということは客観に反するということとなり、そこから共同体への不信が生まれてしまっています。

2つ目は、共同体内で視認している一部の標本に偏りがある可能性から派生する不信。
これが元々このエントリで脈絡なく話すつもりだったことですが、ボク自身も人間の端くれである以上、どうしても思考が気分のように不確定な物に左右されることがあります。
これが大問題で、共同体内のどこにポジショニングするかを自分の気分で決定してきたことから、ただでさえ共同体内にいて標本を取ることで平均化されていた考察の信憑性が、そもそも標本に存在した偏りに拠って余計に低下する懸念が付き纏ってしまった、という事態に繋がっています。
結果として平均化されていた考察は客観ではないということになり、そこから共同体への不信が増幅されてしまったのでした。

元々1つの共同体に身を置くことは他にも危険性があると考えていたため、ツイッターですら複数の共同体(ツイッターでよく使うフレーズで言うところの「界隈」)に身を置くよう心がけていましたが、最低でも本項で上げた1つ目の不信くらいは拭うことを見据えて、より俯瞰的な立ち位置に根を下ろそうと少しずつ思うようになってきています。
というか、これもエントリを書き始めた段階ではさほど答えが纏まっていなかったのが、キーボードを長々タイプするに連れて段々と纏まってきたような。
こんなハズじゃなかったんですけど……ま、いっか。  

さて、そろそろ本エントリを〆る方向に進んでいますが、最後に今日言いたくなったことを1つ。

友人と食う飯は旨い。そして飯を食いながら駄弁るのは楽しい。

時々誰とも喋らず1人で気楽に休日を過ごすこともあるんですが、そうすると次の日にはコミュニケーションを取りたくなります。
そしてそういうときには、ほんの少しながら言語野が退化してしまっていると最近気づき始めました。
こういった問題も合わさって、やっぱり友人と飯を食うってのは楽しいなという思いは強まるばかり。

だからこそ、大事なことなので2度言います。

友人と食う飯は旨く、飯を食いながら駄弁るのは楽しい。

Written on May 25, 2017